2012年07月01日

波多野氏の滅亡悲話

丹波は戦国末期、明智光秀の所領となりました。
信長から丹波平定を命ぜられた光秀は、前後4ヵ年におよぶ苦難を経てそれを実現、天正年間において信長の信任がもっとも厚かった武将のひとりといえます。本能寺の変を起こすちょうど1年前の天正9年に光秀みずから書き起こした「家中軍法」においては、主君信長への感謝とも受け取れる文言がみられます。
この事実とあわせて考える時、あの不可思議な本能寺はなぜ起こったのか、と、しばし考えざるを得ません。しかし当時、信長に仕える武将たちのあいだには、信長の人使いに対する疑心暗鬼が起きていた可能性があるでしょう。光秀に先立ち、摂津伊丹における荒木村重の謀反が起きていますし、同じ頃には織田家譜代の家老である佐久間信盛がにわかに信長から禄をはがれ、高野山へ放逐されています。乱が起きたとき、村重自身は逃げ延びましたが、信長は男女の別なく、家族、家臣をはじめとする族類をことごとく捕え、当時はまだ海浜であった摂津七松(現在の尼崎市役所付近)で、彼らを4軒のわら葺の家を作らせてその中に閉じ込め、火責めで皆殺しにしたのです。

おそらく織田家のなかでもっとも教養に恵まれ、繊細な感覚の持ち主であった光秀にとって、信長の恐怖人事と容赦ない報復への恐れが、やがては本能寺へと向かっていったのではないか、とも思われるのです。
加えて、光秀にとって丹波平定は決して平坦な戦ではありませんでした。緒戦において和議をかわしたはずの波多野氏は、安心して奥丹波の黒井城へ向かった光秀軍を、黒井城主、赤井直正と図り、背後からはさみ討ちにして攻め立てました。光秀はこの波多野の裏切りによって多大な犠牲を払い、京へいったん退いて軍勢を立て直すと、今度は波多野の本城であった八上城を兵糧攻めにしました。城内の食物は尽き、天正7年6月、ついに八上城主、波多野秀治は光秀に降参を申し入れましたが、弟、秀尚とともにそのまま安土へ護送され、信長に対面、面罵され斬られてしまいます。時に秀治51歳、秀尚25歳であったといわれています。
新田次郎の小説「光秀の母」では、フィクションですがこの時、秀治との和議に際し光秀が人質に差し出した母を、信長の仕打ちに激怒した波多野の将兵たちが八上城内の松にはりつけ処刑した、と書かれています。今残る「はりつけ松」はあたかもそれが現実であったかのような幻想を持たせます。

今回は、そんな歴史ロマンの残る丹波最大の古戦場、八上城と、毎年夏前の「丹波茶まつり」でにぎわう味間の大国寺を訪れました。このお寺は波多野氏の末裔が江戸時代より代を受け継いできたところで、本尊は薬師如来坐像、大日如来坐像、阿弥陀如来坐像、持国天立像、増長天立像ですが、それらとあわせて今もひっそりと波多野秀治、秀尚兄弟の位牌がまつられています。
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秀麗な姿の高城山。八上城はこの山を要塞化してつくられている。

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麓にある解説板。

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こちらは本文とは違う秋に訪れた大国寺本堂。ちょうど色づいた紅葉が美しい。内陣右側に安置された波多野兄弟の位牌は、戦国に生まれた者の無念をにじませるかのようだ。
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2011年11月28日

福知山の城と町

福知山は古くから三丹の咽喉に位置した街で、丹波、但馬、丹後への分岐点にあたり、光秀の丹波における本拠地である亀山とともに、極めて重要な戦略拠点となっていた。

天正7年夏、光秀は丹波八上、黒井城攻めと前後してこの地の横山城を攻めた。この城がもと横山城と呼ばれたのは、城郭の位置する丘陵の名前にちなみ、また同じ地名を名乗る横山氏の居城であったことにもよる。中世にはこのように、地名を名乗る豪族が多かった。
ここを落としたあと、光秀は、中世的な掻き揚げの砦の域を出なかった城を高い石垣と広い堀に囲まれ鉄砲戦に向く、彼好みの近世的な縄張りに改築した。現在、非常に多く使われている転用石の存在は、当時の石集めの苦労を物語っているといわれる。また本丸に掘られた日本一の深さをもつ井戸は、光秀の土木技術への精通ぶりをうかがわせるに十分といえる。

城主は光秀のあと、江戸時代初期までの期間、転々とするが、寛文9年以降、徳川幕府の旗本であった朽木氏13代の城下町として受け継がれた。当時の遺構としては、かつて本丸天守台に置かれていた銅門番所があるが、昭和61年、市民の浄財を募って復興された天守閣の完成とともに現在の二の丸からの登城口に移築された。天守は古式の天正様式を伝えているといわれるが、当時としては珍しい連郭式の小天守は後世の増築と思われる。最上層は南側を壁でふさぎ、下層の破風を張り出させているのが特徴的だが、残りの三方は窓と望楼として開放されている。全体をみると四層となる珍しい様式も、初期の天守として貴重な遺構といえる。上層の逓減率はかなり大きいが、その姿は大変美しい。

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福知山城天守。複雑な形をしている。石垣に多くの転用石がみられる。

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登城口の坂。ここは平成に入ってからの補修であり、当時と同じかどうかはわからない。

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小天守。大天守と連結されているが、後世の増築ではないかと思われる。
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